瞑想は「思考の腕立て伏せ」
ここ半年、朝晩15分ずつの瞑想をほぼ毎日実施している。
表題のように自分にとって瞑想は筋トレと同じようなもの、中でも特に「腕立て伏せ」に近いと思ったので、その内容をまとめておく。
瞑想中は基本的に吸う息、吐く息に集中しようとしている。しかし、15分の瞑想中に呼吸だけに集中できることは滅多に無い。瞑想中はとにかく様々な「雑念」が湧いてくる。
・今日の予定はどうだったかな。
・週末のキャンプに持っていく道具のリストを作らなくちゃ。
・あ、◯◯さんにメール出し忘れた。
雑念は湧いた瞬間消えるのではなく、そのまましばらく頭の中を漂っている。
さらにたちの悪いことに、雑念が湧いたこと自体にも気付かず、しばらくはその事を考え続けてしまうことも多い。「雑念に捉われている」状態だ。
特に「メール忘れた」的な懸念事項を思い出した際は、次にリカバリー方法などを考え始めるなど、そこを起点とした思考が続いてしまうので、瞑想をしている事自体忘れている時がある。
そのまま考え込んでしまい、瞑想タイムが終わったしまったことも1度や2度ではない。
稀にそれとは逆に「フロー状態」と呼ばれる深い集中に入れた経験もあるが、それについては別の機会で紹介する。
さて、雑念が湧きしばらくそこに捉われていると、
「あ、瞑想中だった!」
と、気付く瞬間がある。
この「気付き」が非常に重要と感じている。
「今日の予定はどうったかな」
と考え始めている自分に気付くと、
「今自分は、今日の予定を考え始めている、今日の予定を考え始めている。」
と自分自身の思考の実況中継を始めるようにしている。
この実況中継を「思考のメタ化」と解釈している。
この「思考のメタ化」ができるとしめたもの。
自分を客観的に見るための第一歩に成功したからだ。
そして、「考えている予定は、瞑想が終わってから手を付けよう。」と判断すると、不思議とその雑念は頭の中から静かに消えていく。これが「雑念を手放せた」状態と解釈している。
なかなかメタ化できない雑念もある。
「メールを出し忘れた」の様に懸念を伴う思考が出てきた時は、リカバリー方法、反省の感情、自分自身への言い訳などがぐるぐる頭の中に渦巻き始める。
それでもなんとか、
「メールの出し忘れについて考えている、メールの出し忘れについて考えている。」
と実況中継に成功すると、
「メールのフォローは瞑想の後に手を付けよう」と思考を変化させることができる。すると、不思議とスーッと頭の中から懸念が消えている。
(瞑想後にメールを出すことをまた忘れてしまい、さらに懸念が増えてしまうのは別の方法で回避することにする。)
とはいえ、大きな心配事を抱えている時や調子の悪い時は、雑念に支配されたまま瞑想タイムが終わることも珍しくない。
逆に調子が良い時は、難しい問題を抱えていても、瞑想をすることで一度頭の中をリセットでき、冷静な気持ちで向き合えることもある。
このように雑念への抵抗力は、自分の精神状態を判断できる基準にもなっている。
聞くところによると、瞑想は「脳の前頭葉の訓練」になっているらしい。
自分にとっては「自分の思考を客観的に観察する訓練」と捉えている。
「自分を客観的に観察する」には、それなりの「意志力」が必要で、その「意志力」は毎日の瞑想で少しずつ強化されているように感じる。毎日の瞑想を初めて半年以上が経つが、以前より瞑想中に懸念事項に捉われる時間が減っているように感じる。
それが「前頭葉の訓練」と理解している。
この訓練は、筋トレと同様に毎日のトレーニングを淡々と積み重ねることで気がつけば筋肉がついているように、意志力が強化されていることを期待して日々コツコツ取り組んでいる。
また筋トレの中でも、「腕立て伏せ」は誰でも1度はやったことがあり、器具もいらず場所も取らないので比較的簡単に取り組める種目だ。
なので、僕は「瞑想は思考の腕立て伏せ」と理解している。
1回の「思考の気付き」が腕立て伏せ1回に相当すると思えば、雑念が湧くことはそう悪いことでは無いのかもしれない。